東京国際映画祭で上映する作品の選定を仕事として続けているうちに、客観的な視点で映画を見る(判断する)癖がついてきた気がする。1日に10本見ねばならない場合、いちいち感情移入していては体が持たないからであったり、自分の感情に走って判断してはいけないとブレーキをかけてしまったり、理由はいろいろ挙げられる。つまらない人間になったものだと卑下するのがいいのか、プロとはこういうものだとうそぶくべきか、自分でもよく分からない。2013年盛夏、そんな選定作業の最中に、『レッド・ファミリー』が手元に届いた。
キム・ギドクが脚本とプロデュースを担当し、新人に監督させる作品が製作中であると聞いて、興奮しない映画ファンはいないだろう。容赦の無い激しい描写を恐れず、時に徹底したアート路線も厭わないギドクは、さぞかしコントロール・フリークで近寄りがたい独裁者であろうとの印象を与えるが、それは幸いにも誤解である。特に自分が脚本や製作に回った時は、積極的にサポート役に回るという。撮影現場にも現われず、むしろ若い監督の精神的支えとして、見えないところに存在している守護神のような立場になるらしい。つまり、ギドク特有の毒を含んだ脚本が、意外に風通しの良い作品として仕上がることが多いのだ。
もちろん、そこにはギドクの若手監督の適正を判断する、確かな目があるということは言うまでもない。『レッド・ファミリー』にはギドクの南北統一への思いこそ込められてはいるが、しかし本作はイデオロギーの対立を巡る映画である前に、なによりも家族とは何かという問いを通じて、人間の感情の最も純粋な部分を描く物語である。厳しく残酷な背景のもと、優しく、心のこもった家族の気持ちを丁寧に描く必要がある。そこでギドクは敢えて自分ではなく、短編映画で感情の演出に長ける才を見せたイ・ジュヒョン監督に、白羽の矢を立てたのだ。
隣り合う二つの家族の悲喜劇を描くギドクの脚本は、厳しい現実にダークなファンタジーを持ち込んだような、魔術的なリアリズムの世界だ。その世界でイ・ジュヒョン監督は役者たちを伸び伸びと泳がせ、硬軟使い分けて笑いと戦慄を交互に繰り出し、そしてクライマックスへと緊張を持続させていく。見事である。イ・ジュヒョンの才能を短編映画だけで見抜いたギドクの眼力もさすがであるが、その期待に完璧に応えたイ監督も本当に只者ではない。以上のような記述をもって、客観的に映画を見る、というのだろう。しかし、自宅のパソコンで『レッド・ファミリー』の業務試写用DVDを見た僕は、もう、嗚咽をもらすほど泣いた。Tシャツの首回りがぐしょぐしょに濡れていた。客観なんてどうでもいい。即、映画祭への出品をお願いすることに決めた。
人里離れた場所に身を置き、世を捨て、孤独を愛する仙人であるかのような印象を与えるギドクは、実は人間嫌いなどでは全くなく、逆に人間が人一倍好きなのではないか。そして、誰よりも、人間の感情に対して、愚直なまでの希望と理想を抱いているのではないか。都会暮らしでは意識できないような、人の優しさに希望を抱くことの出来るピュアな思いを、ギドクは山の中でひたすら培養し、純化させ、その結晶を作品世界に注ぎ込んでいるようだ。でなければ、ここまで魂を揺さぶる脚本など、書けるはずがない。
清濁併せ呑んだ末のギドクが辿りついた、希望の境地。それを新人監督というピュアな器でさらに濾過した結果が、『レッド・ファミリー』だ。絶望的な状況から、1滴の希望を絞り出す。その1滴の希望に、滂沱の涙が流されるだろう。
はたして、東京国際映画祭でワールドプレミアが実現した『レッド・ファミリー』は、実際に観客の心をわしづかみにした。それだけでなく、見事に観客賞を勝ち取った。キム・ギドクやイ・ジュヒョン監督たちとともに上映後のQ&Aに登壇した司会の僕から見えたのは、目を真っ赤に腫らした観客たちだった。会場を支配していたのは、恐怖政治への戦慄ではなく、おおげさを恐れずに言えば、まさに人類に対する希望だった。客観や主観などと言った小さくつまらない理屈を超えた、映画だけがもたらすことの出来る力が、そこには、確固としてあったのだ。僕は、この日の上映のことを忘れることは無いと思う。